グイノ神父の説教 C 年



 C 年   

年間第13〜19主日から

年間第21〜22主日まで





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                     年間第13主日      C年      2010627

   列王記上 19161921節  ガラテヤの信徒への手紙 5章1、1318節  ルカ 95162

    中東アジアでは人を歓迎する事は、昔から避けられない義務です。 それにもかかわらず、エルサレムへ巡礼に行っているイエスや彼の弟子たちをサマリヤ人は歓迎するのをこばみました。 ヤコブとヨハネはこの事で非常に気分を損ないました。 かつて、自分の敵を滅ぼす為に、雷を落とした預言者エリヤを真似て、彼らは皆の名誉にかけて復讐する事に決めました。(列王下11012節) しかしイエスは悪霊たちにするように、彼らを「厳しく叱りつけ」ました。(ルカ435節または942節参照) イエスの弟子であるということは、暴力を正当化する論理、他人を支配する欲望、または他の人より上手く出来るという野望を持たない決意が要求されます。 イエスと共に歩む道は、忍耐強くすべてを耐える赦しと回心の道です。

    その時、イエスのもとへ一人の人が来て、感動し、夢中になって「あなたがおいでになる所なら、何処へでも従って参ります」と断言します。 事実、この人にとって何処へでもイエスに従うということは、自分の泊まる場所を見つけるのを意味しています。 イエスは「私と一緒に来ると、休憩もなく、休む事も不可能です。」と彼に答えます。 この人の夢中の状態は信仰ではありません。 最後の晩餐のとき、ペトロは同じように夢中になって、「あなたの為なら、命を捨てます」(ヨハネ1337節)といってから、何時間もたたないうちに、イエスを完全に否認しました。 イエスはご自分と共に来たい人の希望を無視しませんが、その道の厳しさをはっきりと見せます。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。 だが人の子には枕する所もない。」(ルカ958節)と。 サマリヤ人が歓迎の義務を否定したから、今夜もまた、彼にも弟子たちにも泊まる場所がないとイエスは彼に説明します。 イエスに従うとは、不安な生活を選ぶ事です。

    それから、自分の気持ちを表すことの出来ない人が来ます。 イエスはこの人のうちに、弟子になりたいという希望を見分けます。 そこでイエスは主導性をとって、彼に「私に従いなさい」(ルカ859節)と言います。 この人は迷ってためらい、自分で決定しなくてもよいように言い訳する人に属します。 このような人は自分を弁明する為に、両親に対する敬いを引き合いに出す人です。 「先ず、父を葬りに行かせてください。」と彼は父がまだ生きている内に、その憩いの場を与える準備をしたいと望みます。 そのためにイエスは穏やかに死の場を離れて、生命を選ぶように招きます。 「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。 このイエスの誘いは、自分の弟子にしたいという理由でその人の自由を束縛しません。 むしろ彼が自由であるように、励まし、大切にします。 「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(ルカ923節)と。

    最後にもう一人の人が来ます。 彼はイエスに従いたいが、先ず自分の条件を言います。 この人は、立派な理由があって「私はしたいのですが、今ではなく後で・・・」と言う人達に属しています。 イエスは忍耐強く、彼らに過去の事は後において、未来に向かって進むようにと答えます。 このようにイエスは神の国の宣言は延ばすことが出来ないとはっきり説明します。 「今や、恵の時、今こそ、救いの日」(Uコリント62節)であって、明日では遅すぎます。 イエスの真の弟子は「後ろのものは忘れ、前のものに全身をむけつつ」(フィリピ313節)目標を目指してひたすら走ります。(フィリピ314節)

    今日の福音が示している一人ひとりの人物に、私たちがよく似ている事を認めましょう。 確かに私たちは日によって、ヤコブとヨハネのように復讐心に燃えます。 またペトロのように夢中になったり、他の弟子たちのようにためらったり、優柔不断であったりします。 そこでイエスは命と愛に敵対するすべてのものから、私たちを解放したいのです。 信仰と愛の道で彼の傍らを断固として歩むために、イエスが助けて下さいますように。  私たちが本当に神の国の子供である事を証できるために、聖霊がご自分の力と勇気を与えて下さいますように。  そうです、その通りです。 イエスに従って歩む事で、私たちが幸せ一杯である事を、皆によく見せましょう。   アーメン。



                年間第14主日       C年       201074

   イザヤ書 661014節  ガラテヤの信徒への手紙 61418節  ルカ 10120

    洪水の物語の後で、創世記では地上にあった72の民の名前を数え上げています。(創世紀10章) 72という数は普遍性を表します。 地上に散らされているすべての民を考えながら、ルカは自分の福音を書きました。 使徒パウロとその数え切れない協力者のお陰で、世界中の至るところで、キリスト教的共同体は既に増加していました。 しかし、福音宣教のやり方は、イエスご自身から来たことを、ルカは私たちに思い起こさせます。 イエスは宣教のために、12使徒だけではなく、大勢の弟子たちを遣わしました。

    最初に遣わされたこれらの72人の選ばれた宣教師は、キリストの信頼の印を示しています。 確かにイエスが彼らに出している要求は、多くの難しい条件を含んでいます。 宣教の首尾は、ただ、物事への断念と、不確定さにかかっています。 遣わされた者は、すべての妨げから自由でありながら、祈りの力と神の摂理の確実さを拠り所としなければなりません。 彼らが宣言する福音は、宣教の首尾のために必要なものすべてを与えるからです。 従って、福音宣教は彼らにとって、溢れるばかりのよろこびとなります。 神ご自身から来るこのよろこびは、次の詩篇 ― 詩篇 13−6、16113321 ― を、私たちに思い出させます。

     今日、預言者イザヤはこのよろこびを歓迎するように私たちを招きます。 「エルサレムと共に喜び祝え、彼女のために喪に服していたすべての人よ。 私は彼女に向けよう。 平和を大河のように! あなたの心は喜び楽しみ、あなたは青草のように育つ。」(イザヤ書661014節参照)  ルカもまたイエスのよろこびと、幸せそうに宣教から戻ってくる72人の歓喜の雰囲気を分かち合うように、私たちを招きます。 「悪霊があなた方に服従するからと言って、よろこんではならない。 むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることをよろこびなさい。」(ルカ1020節) 宣教のよろこびは悪に対する勝利のよろこびではなく、むしろ、神の意志を行なったよろこびです。 このよろこびは神ご自身のものであり、弟子たちの名が神ご自身の心に書き記されているよろこびです。 ルカは私達が「収穫の為に働き手を送ってくださるように」(ルカ102節)祈りながらこのよろこびに入るように私たちを招きます。 よろこびはいつも祈っている人に与えられているからです。 この理由から、今日のミサ祭儀を始める時、司祭は神にあなたがたに代わって次のように祈ります。 「終わりのないよろこびに与らせて下さい」(集会祈願)と。

     イエスの勧めに従って、私たちは「収穫が多いこと」を絶えず祈る必要があります。 同時に、私たちはまた他の人々に神の平和を与えるために、その人々の方へ行く必要もあります。 「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』といいなさい。」(ルカ105節)と書かれています。 受け容れられ、また拒否された、この平和を通して、神はご自分の救いの計画を実現し、私たち自身は確かに私たちと共に神が働いていられる証人となります。 そこで、イエスは本当の奇跡とは、悪霊を追い出すことではなく、むしろ、彼の名によって他の人々に神の平和を与えるために、その人々の方へ行くことだと説明します。 最後に72人の弟子は私たちに、救いと教会の普遍性を思い起こさせます。 福音は本当に良い知らせで、すべての人にとって、意味があり、すべての人が理解できます。

   同様に教会の教え、つまり教会の語る言葉は、厄介な、担いきれないものであってはなりません。 むしろ、人間の根本的な、心の奥底から湧く希望に答えなければなりません。 人々の前で、私達が神の証人となるように、神は私達を選びました。 そういうわけで、祈り、神への信頼、平和と喜びが私達の信仰と日常生活の土台とならなければなりません。 私たちの名が、神の心に書き記されているから、喜びましょう。 「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイの信徒への手紙33節)から喜びましょう。 全人類が救われるように、そして私たちと共に神の平和に入るように! アーメン

年間弟17主日
    

                  年間第15主日      C年      2010711
 
    
   申命記 301014節  コロサイの信徒への手紙 11520節  ルカ 102537


    福音の教えを理解する為に、第1の朗読は良い導入です。 この朗読は神の律法は連続する1連の掟ではなく、むしろ、神が私たちの心に刻み込んだ愛の掟です。 もし私たちがこの愛の掟に耳を傾けるとしたら、福音の中にあるすべての掟の意味が理解できます。

    ルカの福音は、一人の律法学者がイエスに言った質問で始まります。 この質問は、「何をしたらよいでしょうか?」と言う具体的、個人的な良い質問です。 イエスは神の律法の内容について考えさせることで彼に答えます。 「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と。 律法学者は良い答えをしたので、イエスはすぐに、自分が宣言した事を実行に移すように勧めます。 しかし彼は「私の隣人とは誰ですか?」と新しい質問を出します。

     ある日、マザー・テレサにむかって若者が次のように言いました。 「私は一度もキリストを見たことがありません」と。 そこでマザー・テレサは印象深い沈黙の内に、彼をじっと見つめてから、「それならあなたは一度も貧しい人に出会ったことがないのでしょう」と答えました。 またアウシュビッツの収容所での出来事ですが、ナチスによって首を絞められた子供の遺体の前で、一人の囚人が「一体神はどこにいるのか!」とうめき続けました。 それを聞いたほかの囚人の一人の心から次のような答えが溢れ出ました。 彼は「神はここにいる、この拷問を受けた子供の弱いからだの中にいられる」と神に対してわめいた囚人に言いました。

    神は先ず貧しい人の中にいられます。 特に人間として認められない人、苦しみ、病気、試練によって打ち砕かれた人のうちにいられます。 これについて、聖ヤコブは、「神の前で、清く汚れのないまことの宗教とは、試練の中にいる人々を訪れることです」(ヤコブの手紙1127節参照)と言っています。 神はまた絶えず世のために祈り、執り成す人、または他人に自分自身のすべてを与え尽くす人の内にもいられます。 また、持っている物を他の人と分かち合う人、様々な施しをする人の姿は神ご自身の顔です。 更に、この人生から何も期待せず、何も望まない人の言うことに、耳を傾け、彼らを慰め、励まし、希望を取り戻すために敢えて立ち止まる人のうちにも、神はいられます。 その上、福音の宣言と教会の奉仕のために、全生涯を聖別する司祭、宣教師、信徒のうちに、特に、神は現存されます。

    よいサマリヤ人は私たちの模範であるキリスト御自身です。 イエスは全人類の傷を癒し、介抱するために、私たち人類に近寄る神です。 よいサマリヤ人とは、イエスにおいて私たちの一人となられた神ご自身です。 神は確かに私たち人間の状況、人生の中にあるすべての事実と恐ろしさを自分の身に負われました  イエスが来られたのは、「悲しむ人には喜び、捕らわれ人には自由、貧しい人々に救いの福音を告げ」るために来られました。(第4奉献文)

    私たちの想像を超えるほど、イエスは私たちに近い者となられました。 苦しんでいる全人類にとても近くなられたので、私たちの一人にならずにいられませんでした。 ですから、私たちは死に苦しむすべての人のうちに彼を見分けるように学びましょう。 マタイの福音が述べている最後の審判の例え話(マタイ
25章)によれば、神は私たちがカトリックであるか、プロテスタントであるか、ユダヤ人であるか、イスラムであるか、宗教を持っているかどうかさえ絶対に聞きません。 むしろ唯一つの質問をされます。 それは私たちの助けをどうしても必要としている人に、近寄ったかどうかです。 私たちが神の祝福を受けた人のうちに数えられますように!  マタイは「私の父に祝福された人達よ・・・私が餓えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢にいたりするのを見て、訪ねてくれたからだ」(マタイ253435節)と書いています。  アーメン。



                     年間第16主日      C年     2010−7−18 

    創世記 18110節  コロサイの信徒への手紙 12428節  ルカ 103842

    歓迎、友情、出会い、分かち合いというものは、この日曜日のすべての朗読の主題です。 先ず、創世記では、真昼の暑さの中を近づいてくる3人の旅人を、アブラハムが自分のテントでどのようにいそいそと歓迎したかを示しています。 彼の歓迎は、素晴しい未来の約束を与えました。

    次に、私たちはマンブレのかしの木からラザロの家へ移されます。 イエスと彼の弟子たちにとってラザロの家は、リフレッシュさせる場所であり、深い友情のオアシスでもあります。 初代教会の信徒も、友人の家で友愛のうちに祈ること、主の晩餐を記念する習慣を大切にしていました。

    最後に、使徒パウロはコロサイの信徒への手紙を通して、それが「どれほど栄光に満ちたものである」か、信じる人々が招かれている主の晩餐について語っています。 この栄光に満ちた神秘とは、私たちの間におられるキリストの現存です。 ミサは、平和と喜びの内に、私たちが互いに受け入れるべき神秘なのです。

    今日の福音によると、昔のアブラハムに真似て、マルタは自分のお客様を申し分なく歓待するために、力を尽くして働いています。 かえって、マリアはイエスの弟子たちの態度を真似て、精一杯イエスの教えに耳を傾けています。 たとえイエスが「マリアは良いほうを選んだ」と言われても、この二人の婦人、マルタとマリアの模範的な行動を比較したり、非難したりするのは役にたちません。 なぜなら、マルタは肉となられたみ言葉の奉仕に自分の全力を尽くしているし、他方、マリアはみ言葉であるイエスの教えに注意深く聞きいっているからです。 兄弟ラザロの死の際に、確かに、マルタが皆の前で強く平静な信仰を宣言する一方で、マリアと言えば、家に引っ込んで、ずっと泣いていたのです。

    だから、人々に対するバランスの取れた奉仕は、信仰を強め、祈りを養う事ができます。 むしろ、人に対する極端な活動は、神や、祈りから、まして自分自身に対する反省から私たちを遠ざける危険が多いようです。 同時に、神のみ言葉の黙想と祈りに養われた生き方は、必ず、他の人に対してどのような行動を取ればよいかを、教えます。 しかし、他の人との出会いを恐れたり、またこの世のニ−ズから逃げようとする祈りの生き方もあります。 ですから、イエスは私たちに良い選びをするように勧めています。

    とにかく、すべてにおいて、神は私たちが第一に奉仕するお方でなければなりません。 神と隣人に対する私たちの愛はたえず祈りから行動へ、また行動から祈りへと行く必要があります。 活躍した活動は、静かに憩いながら、神のみ言葉を聞く態度で終わらなければなりません。 人間としての私たちの務めが決して必要不可欠なことから私たちをそらせてはなりません。 それは、つまり、「無償の愛で自分の信仰を生きること」です。

    いつか、イエスに対する私たちの愛の細やかな心遣いを、イエスの足許での長い祈りによって示すことがあるでしょう。 他の時には、同じ愛を兄弟姉妹の歓迎や奉仕の活動を通して表現するでしょう。 とに角、どんな状況に置かれても、―思いがけなかったり、苦痛であったり、楽しかろうとたのしくなかろうと―、私たちの心の静かさを保ちながら賢明に行う為に、神との個人的な対話が揺るがない土台となるはずです。

    神は活動と観想の内に同じ位に現存なさるのですが、絶対に、ざわめきや動揺の中におられません。 イエスへの愛の内に互いに補い合っていたマルタとマリアが、キリストを正しく歓迎する私達の助けとなりますように。 またイエスの名によって、あるいは、ただイエスのためにだけ色々して、他の人を無視する事のないように、主イエスご自身が私たちに教えてくださいますように。 むしろイエスが私たちの単純さと精神の自由を通して、何時も自由に働くように、まかせましょう。 アーメン。

 

                 年間第17主日      C年      2010725

    創世記 182032節  コロサイの信徒への手紙 21214節  ルカ11113

    生涯にわたってイエスは祈っています。 度々荒野で祈る為に、人々から遠ざかります。 イエスの祈りは彼の従順のしるしです。 なぜならイエスは父のご意志を完全に守りたいからです。 確かに洗礼を受ける時からイエスは祈り、そして、人生が終わる時の、十字架上での最後の言葉は祈りです。 「父よ、私の霊をみ手に委ねます。」(ルカ2346節)

    創世記の物語りは罪人の為に取り成すアブラハムを私たちに紹介しています。 まして、罪人の為に生きられたからこそ、どれほど、イエスは彼らの為に絶えず祈られたことでしょうか。 そしてイエスがまた天の栄光の中で、御父の傍で私たちのために取り成し続けておられる事をよく知っています。 聖パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、「神は私達の一切の罪を赦し、私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄した。」と説明しています。(コロサイ2章1314節) このように言いながら、パウロは自分の時代のユダヤ教の祈りの言葉を借りています。 イエスもまたこの祈りを確かに使われた事でしょう。 この祈りは特に、「主よ、あなたの偉大な憐れみによって、私たちを訴えているすべての負い目の証書を全部放棄してください。」と願っています。 この祈り方は、他の姿でキリストが私たちに教えられた祈りの中に見つかります。 「私たちの負い目を赦してください。 私たちも自分に負い目のある人を許しましたように」(マタイ612節)

    祈るのは簡単ではありませんが、祈りには伝染性があります。 「主よ、私たちにも祈りを教えて下さい」祈っているイエスを見ながら、弟子たちは自分たちもまた祈りたいと思いました。 もしあなた方が沈黙で祈っている人のいる教会に入るとしたら、すぐにあなた方は、彼らのやり方を真似て跪いて祈るでしょう。 勿論、神に向かってよりも、隣の人々としゃべる人の多い教会では、ミサの始まる時間を待ちながら、祈っている人を見つけるのは稀です。 ここで、沈黙の内にされたキリストの祈りは、私たちに、強い印象を与える模範であり、教えです。

    「主の祈り」を祈るのは、神と直接に繋がる電話番号を打つことではありません。 むしろ祈ることは、自分の心と知恵と魂をつくして、神のご意志をより良く実現する為にお望みを謙遜に受け入れることです。 主祷文が願っている事は、絶対に自己中心のことではありません。 それは全部共同体に関するものです。 最も良い未来を築く為に、この願いは、分かち合い, 赦し、回心へと私たちを招きます。 勿論この未来とは、神の国の到来、天と地の交わり、永遠の救いとすべての人の聖化です。

    今日、イエスは私たちに祈り方を教えると同時に、神がどんな方であるかをも教えます。 神は父であり、誰よりも最高の方です。 私たちは信頼、忍耐をもち、更に邪魔ではないかと恐れることなく、父に向かうように私達を助けようと、イエスは多くのイメージを特別に作っています。 「私たちに与えられた聖霊によって、心の中に神の愛が注がれている」ことをイエスは私たちに思い出させます。(ロマ55節) この聖霊こそが、私たちに信頼をもって「アッバ、父よ」と言わせるのです。 このようにイエスと聖霊の取り成しによって、神ご自身が私たちの人生を満たす為に、ご自分を私たちに下さるのです。

    祈りは私たちの魂と心を開き、生きた愛がそこで場所を見つけるために、それを更に広げます。 祈りは神を父と呼ぶことから始まり、それから少しずつ、神との親密さに私たちを引き寄せます。 最後に祈りは私たちを聖化し、神にならせます。 これこそ神の国であり、神のご意志です。 ですからイエスのように、長い祈りの時間を取るように学びましょう。 それは私たちの心が神の呼びかけに素早く従がうように、また、兄弟姉妹の必要性に具体的に答える為です。 そうすれば、私達の人生は、神の愛に満ちた現存で満たされ、神の生きた言葉であるイエスに養われ、聖霊の力のうちに聖化されるでしょう。  アーメン。

  

                   年間第18主日      C年      201081

   コヘレト12節、22123節 コロサイの信徒への手紙315,911節 ルカ121321

    私たちを動揺させる心配事の空しさについて、第一朗読は指摘しています。 「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。」(コヘレト222節) 地上の富の空しさのテーマが、遺産に対する権利を失った金持ちの例えによって、もう一度出されています。 つまり、「神は『愚かな者よ、

     今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、一体誰の物になるのか?』といわれました」。(ルカ1220節) 最後に、コロサイの信徒への手紙は、過ぎ去る一瞬の楽しみへの魅力に、信徒が騙されないようにと励ましています。 「上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙32節) このように、今日、明白な眼差し、物質的なものに捕らわれない心、神から頂いた物事に対して感謝する魂を得るように、神は私たちを招きます。

   人間の幸せと地上の現実は煙のようにはかないものです。 「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝がくれば、人は草のように移ろいます。 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ,枯れていきます」(詩篇9056節) それにもかかわらず、人間は望みなしに生きることは出来ません。 幸せに生きる事、物質的なものを所有して、それで楽しむという当たり前の望みが、渇望に変化しないように、どうしても限界を決め、コントロールしなければなりません。 何故なら、渇望は利己主義、嫉妬、すべてをもっていないという寂しさを産みだすからです。 聖パウロはこの渇望の持つ乱脈さは、不品行やあらゆるふしだらな生活に導くとまで強調しています。 「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、及び貪欲を捨て去りなさい。 貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイの信徒への手紙35節参照)

   「自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと考えてはならない。 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。 富を築く力をあなたに与えられたのは主である。」(申命記818節)と昔、モーセは言いました。 私たちが持っているもの、物質、文化、霊的なものに対して、私たちはいつも、これは先ず、神からの賜物である事を思い出さなければなりません。 消えうせる物質的なものを蓄積していく努力と、物質的安全性を確実なものにする心配も、私達に神を忘れさせる可能性があります。 その時には、私たちの心は直ぐに乾き、利己主義が心を占領します。 「自分だけの楽しさ」のために、富んだ人になるのは、今日の例え話の金持ちの愚かさを選ぶことです。 むしろ、「神を目指して」富んでいる人は、愛に根ざしている終わりのない人生の喜びと心の平安とを選ぶ人です。

    アヴィラの聖テレジアは「何にも心を乱さず、何をも恐れるな。 すべては過ぎ去り、ただ神のみにて足りる。」と言っています。 神だけが変わりません。 神は私たちに必要なものをご存知ですし、無償で、私たちに必ず与ええてくださるのです。(ルカ123031節参照) この世では、すべてが所有欲ともうけの要求の対象として考えられていますから、私たちは明白な眼差しで、かりそめのこの世を見ましょう。 私たちの金庫をお墓まで持って行く訳にはいきません。 神だけが、揺るがない唯一の価値を持っておられ、残りのものはすべて空しく、煙のように消え去ります。 地上のレベルで自分の見通しを決める人は愚かです。 これに引き換え、神の内に自分の豊かさを見つける人は賢明です。 神から頂いた賜物について感謝しましょう。 しかし、「上にある事実を捜し求めながら」(コロサイの信徒への手紙32節参照)、「天に富を積む」(マタイ1921節)ように努力しましょう。

   「だれが私をあなた方の裁判官や調停人に任命したのか?」(ルカ1214節)とイエスはこう言われて、私達の責任を自覚させられます。 自分の財産を公平に分配し、バランスよく管理する保証の方法は私達が自分で見つけるべきです。 神は私達が自分自身で解決しなければならない問題に口を挟むのをお断りになります。 しかしながら、神はいつも何処に重要な点を見るべきか、何が不必要な事であるかを指摘されます。

    ルカの福音のなかでイエスは「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうする事もできないからである。」(ルカ1215節)といわれました。 肝心な事は、財産や儲けの多さにあるのではなく、命こそ一番大切だという事です。 聖パウロは、私たちは死んだから、私たちの命はキリストと共に神の内に隠されている事を思い出させます。(コロサイの信徒への手紙33節) ですから、私たちの人生が、私たち自身を中心にしているのではなく、キリストを中心にしているように全力を尽くしましょう。 この世における私たちの安全は、神とずっと一致していたいという私達の望みと努力だけにかかっていて、保証されています。 そうしたら、私たちの安全はいつか、天において、決定的に立証される事でしょう。  アーメン。



                  間第19主日      C年     201088

   知恵の書 1869節  ヘブライ人への手紙 1112819節  ルカ 123248

    生きているものの間で、人間だけが未来に向かっているものです。 人間はプランを立て、彼にとって未来への見通しなしには、現在は意味もなく、値打ちもありません。 今日、イエスと知恵の書とヘブライ人への手紙は、私たちが注意深く、用心深い態度で未来に向かうように招いています。 この招きは、こんにち、特に大切なものです。 それは信頼をもって未来を考えるのとても難しいからです。 しかし未来は私たちを恐れさせるものではな顔をもち、人格をもっていて、神ご自身なのです。

    「信仰によって、アブラハムは行き先も知らずに出発し」(ヘブライ118節)ました。 アブラハムは大変しあわせで、豊かな町で身を落ち着けていました。 しかし、ある日、神のみ言葉が、彼を異国の地にいる一外国人、移住者としました。 アブラハムは真偽の確かめられない、素晴しい未来の約束を、信頼して受け入れました。 子供のない年寄りである彼に、その子孫が「海辺の砂のように増える」(創世記2217節)のです。 絶えず、移動している遊牧民である彼は、神が彼に約束された土地を、必ず受け継ぐと確信しています。 生きているうちに、アブラハムはこの約束の実現を見ませんでしたが、彼は絶対的な信頼の内に歩み続けました。

    キリスト者もまた、遊牧民であり、信頼をもって未来に向かって歩み続けている巡礼者です。 毎日毎日は彼にとって挑戦の日々です。それは信仰が絶えず新たにされなければならないからです。 信仰とは、過去に執着する事ではなく、むしろ、神によって約束された素晴しい未来への忠実さだからです。 4世紀に活躍した司教、ニュッサのグレゴリオは、「キリスト者は終わりのない始めによって、始めから始めへと、歩んでいきます」と言っています。 確かに、キリスト者は途中で止まることは出来ません。 聖霊によって導かれる私たちは、心の中に、希望と絶対的な信頼を持ちながら、神によって決められた目的にむかって歩きましょう。

    「教会は考古学の博物館ではなく、むしろ村の中央にある泉であり、昔、人々に与えたように、こんにちの人々にも生きた水を与えます」とヨハネ23世は言われました。 私たち一人ひとりは他の人々にとって、オアシスのように、生きた水の泉とならなくてはなりません。 「あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ」(ルカ1234節)とイエスは言われました。 私たちの心は神の為に造られ、神だけが私たちの心を満たす事ができます。 しかしながら、他の人と分かち合う為に、神から頂いたすべてが私たちの心から湧き出るはずです。 ですから、私たちの心は「いつも奉仕する姿」であるように、目覚めていなければなりません。 ご存知のように、神はいつも思いがけない時に来られます。

    私たちにとって未来は、キリストの到来です。 私たちの日常生活の中で、「主人の帰りの時」をいつも精神に留めている必要があります。 この、キリストが来られるという未来だけが、私たちが今日行なうすべての事に意味と値打ちを与えます。 未来からすべてを待ち望む人として、現代を生きるように、イエスは私たちに要求されます。 「ともし火を灯していなさい」とはこういうことなのです!

    目覚めていて、未来に向いていることは、自分たちがしようとしている事を握り締める事ではなく、むしろ、邪魔される事や、仕事に忙殺される事を、更に自分のプランが後回しにされる事を受け入れることです。
 神は色々な風に戻ってこられます。 邪魔な電話、人が訪れて来たので開けなければならないドア、一緒に遊びたい子供、我慢しなければならない頭痛、私たちからの微笑み、手紙、ちょっとした訪問を待ち構えている年老いた両親、これらすべては戻ってこられる主です。 自分の心を開けっ放しにするように気を配る事こそ、愛の挑戦です。 信仰は細々とした愛の行いに基づいています。 これらの行いは、私たちの未来を作り、保証するものです。 道のむこうの端にはキリストとの出会いがあり、キリストご自身が、私たちを「食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださる」(ルカ1237節)のです。  アーメン。



                年間第21主日      C年      2010822

    イザヤ書 661821節  ヘブライ人への手紙 12571113節  ルカ 132230

    預言者イザヤの言葉を聞いたユダヤ人は非常に深いショックを受けました。 彼等は自分たちが神の民であると言う確信を抱いているのに、イザヤは神がすべての人に対して心配し、ご自分の救いを地上のすべての民に約束されると説明しました。 神はこの良い知らせを皆に伝える為に使者を遣わすだけでなく、更に、異邦人の中からご自分の祭司たちを選ぶようになると、イザヤにはっきりと言われます。 この預言が与えるショックはどれほど大きい事でしょうか!

    弟子たちもまた、このイエスの言葉を聞いて非常にショックを受けました。 彼らは唯一の神に対する信仰のお陰で、イスラエルの民は必然的に神の国に入ると思い込んでいました。 しかし、イエスは自分たちの救いが確かだと考える人々は、「泣き喚いて歯軋りする」(ルカ
1328節)と忠告します。 彼らは外に残ります。 なぜなら、ドアが開いている間に入ろうとしなかったからです。 むしろ世界の四方から来て、入るように一生懸命努力した人々は、神の国の宴会に出席するでしょう。

    この厳しい言葉を通して、イエスは神の国に入る許可を受けるには、自分の振る舞いを変える必要があると説明されます。 特権と権利についての考えから離れて、義務と責任の考えに移らなければなりません。 神は既にイザヤを通して、ご自分の民にこの大切な事を理解させようとされました。 神によって選ばれる事は、イスラエルの民に何一つ特権を与えません。 むしろ、世界の救いのメッセージを世に伝える責任と義務を与えたのです。 同時に神の新しい民である教会に属する事は、私たちに何一つ特権を与えず、むしろキリストの本当の証人である義務と責任を与えます。 即ち、人間的また霊的な値打ちのあるもののためにイエスが、生き、十字架に架けられたように 私たちもそれを生きる責任を持ちます。 これがイエスの話された通りにくい狭い門です。

    もしイエスが「どんなことがあろうとも、全ての人が救われるだろう」と言われたなら、私たちは直ぐに、「それならどうして努力しなければならないのですか?」と結論を出した事でしょう。 しかし信仰生活は、闘いです。 この戦いは、絶え間ない努力とめげない回心を要求します。 イザヤは神が私たちの内に「印を置かれた」と宣言しました。 イエスは狭い門である彼を通って入る事で、この「印」に向かって歩むように願っています。 信仰の中心にあるこの「印」まで一度も行かず、また自分自身の外に留まっている人々すべてを、イエスは「外にいる人々」と名付けました。 このような人々は、いくら「私はカトリックですとか、正直に生きようとしているとか、ミサにきちんと参加しているとか、維持費を納めているとか、少教区の活動に参加しているなど」と言っても、彼らは内面的な霊的生活をしていません。 外面的に彼らはキリスト者に見えますが、自分の心の奥底におられる神の現存のしるしにたどり着く事を忘れています。 このような人々に、イエスは多分「私はあなたを知らない。 あなた方は何時も外にいたから・・・ あなた方の内にいる私を見つけるために、あなた方は自分の心の狭い門を通ろうとしなかった。 今日、あなたがたは私のドアを叩いて『主よ、開けてください』というが、私がずっとあきることなくあなたの心のドアを叩いた時、あなた方は一度も、私にドアを開けなかった」と言われるでしょう。

    結論として、神の国に入るために、先ず自分自身のうちに入る必要があります。 それは自己中心の自分にうっとりとなって、満足する為ではなく、むしろ自分の洗礼のときから、自分のうちに住まわれると決められた神の言葉を聞き、観想するためです。 自分の心の中におられる神との出会いに出かけること、それは「自分が何処から来たか」即ち自分の根を発見し、また自分の子としての神との関係を発見するためです。 それはまた真面目に自分の人生を考える事です。 神の現存の光によって自分の心を探ることは、真理のうちに自分の周囲にいる人々と出会う為に、ドアを開けることです。 祈るとは、神を道連れとして、他人に向かって歩む決心をすることです。

     黙想するとは、日常生活を通して「神のみ顔の痕跡」を見つける可能性を、自分に与えることです。  確かに、私たちの美しい使命と責任は、「人々に、義という平和に満ちた実を結ばせ、萎えた手と弱くなった膝を真っ直ぐにする」ことです。(へブライ人への手紙121112節) アーメン。



                年間第22主日       C年      2010829

シラ書(集会の書)31718202829節 ヘブライ人への手紙 1218192224  ルカ14章。1、714

    「招待を受けたら末席に行って座りなさい・・・・高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とキリストは私たちに言いました。 自分が認められたいと言う望みを隠した偽の謙遜を見せるのはとても簡単です。 同時にまた、他の人が期待している奉仕や助けをさけようと目立たないようにするのも易しいです。 キリストが私たちに望んでおられるのは、偽りの慎ましさではなく、むしろ本当のしっかりとした責任を取ることです。

    「昼食や夕食の会を催す時には、自分の親戚の人々ではなく、むしろ貧しい人、体の不自由な人や足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすればあなたは幸いです。」とイエスは付け加えられます。 勿論自分の親戚の人を招く事はよいことで、必要な事です。 しかし、自分に直接の関係がない人や社会的ステータスの違う人たちをはずすことがないように注意しなさいと、イエスは望まれます。 こういうわけで、福音史家たちはイエスが金持ちや貧しい人や病人と共にくつろいでいる姿を見せてくれます。 イエスは私たちが偏見もなく、また恐れることもなく、ご自分と同じように振舞う事をお望みです。 イエスは私たちの寛大さと愛がいつも無償で利益を求めないものであるように望みます。 確かに私たちの寛大な動作が感謝や何らかの返礼を当てにするものであってはなりません。

    イエスは礼儀や道徳の教育を私たちに与えようとは考えていません。 何故なら、彼は例え話しを通して私たちに語っているからです。 例え話しにおいては、何時もその例え話の意味を教えるのは最後に語られる言葉です。 即ち、神の国では、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。 イエスだけが、これを宣言する権利があります。 というのは、イエスがこれを生き、このへりくだりがイエスの人生に意味を与えているからです。 聖パウロはこれを上手に説明しています。 「互いにこのことを心がけなさい。


     それはキリスト・イエスにも見られるものです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事を固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げられました」(フィリピの信徒への手紙2章5−9a節)「へりくだる人は高められる」これこそキリストの生き方です。

    「イエスは最後の場所を取ったからこそ、誰もそれを奪う事が出来ません」とシャルル・ド・フーコーは言っています。 そうであるなら、私たちには喜んで、また急いで,自分に合う席に就く(つく)可能性しか残っていません。 今日の福音の中で、最初の場所を占める人は、他の人の上に自分の権威を押し付け、自分の富、社会での立場などの重みで他の人を圧迫しています。 神は決してご自分の栄光で私たちを盲目にしないし、ご自分の全能の力で私たちを圧迫しません。 むしろ私たちが神の似姿を持って日毎に生きるように、謙遜にまた無償で生きる方法を与えられます。

    罪人としての自分の重苦しさを明白に認めるように、イエスは私たちをこの謙遜さに招かれます。 ラテン語の
humilis(謙遜)はhumus(土)から派生していて、地上のレベルで生きている私達の場所と由来とを思い起こさせます。 神のレベルにまで上りたいと望んだアダムとエヴァは、結局、塵(ちり)に戻りました。 自分が弱いことを認めるのは自分の高慢さを黙らせる事になります。  聖霊が私たちの弱さと傷の割れ目を通って、私たちの内に入られるままにすることは、神がご自分の方に私たちを引き寄せられるためです。 謙遜とは、私たちを天に向かって上らせる、地上に打ち込まれた「はじご」です。  キリストの謙遜と弱さこそ、キリストの昇天の源の泉です。

    神の国の宴会では、傲慢、虚栄、人を支配する望みには全く場所がありません。 ですから、イエスが言われる事によく耳を傾けましょう。 それは自分の選び、優先するもの、自分の振る舞いなどをきちんと整理する事です。 何時か、自分の重苦しさから開放された私たちは、神の国の王国で、歓迎される事でしょう。 そして神はご自分の栄光の中に私たちを置くことで、また、ご自分の聖性で私たちを輝かせる事で、私たちを永遠に愛されることでしょう。 アーメン。

                         

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